創価学園の教育
創価教育の淵源は、1930年『創価教育学体系』を発刊した教育者、牧口常三郎先生の教育理念と戸田城聖先生の教育実践に遡ります。創価とは「価値創造」の意味です。
当時、日本の教育が次第に日本軍当局への盲従を植えつける手段とされる渦中で、牧口先生、戸田先生は一貫して”教育とは子どもの幸福のためにある”との姿勢を貫きました。
1943年、二人は軍国主義に反対したため”思想犯”として逮捕され、牧口先生は獄中で亡くなりました。
牧口常三郎先生は長い教員生活の過程において、教育に関する考えや気づきを、そのつど書き留めていました。そうした教育学の集大成として、1930年11月18日、著書『創価教育学体系』を発刊しました。彼の教育は「価値の創造」を目的とすることから、「創価教育」と名付けられました。
教育の目的が富国強兵へと向かう時代にあって、「教育は児童に幸福な生活をなさしめるのを目的とする」と主張した信念の書でありました。その後、日本が第二次大戦へと突き進む中、牧口先生は軍部政府の弾圧に屈することなく、信念の行動を貫きとおしました。1944年11月18日、『創価教育学体系』の発刊から14年後のその日、牧口先生は獄中において73歳で殉教しました。
「将来、私が研究している創価教育学の学校を必ず創る」との牧口先生の悲願は、弟子の戸田先生に託されました。
戸田城聖先生は、北海道での教員生活を経て上京し、牧口常三郎先生に師事しました。創価教育を本格的に実践するため、学校教員を辞したあと、私塾「時習学館」を開設しました。そこで熱意あふれる教育を展開し、「昼間の学校より楽しい」と評判を呼びました。さらに、独創的な数学の指導法をまとめた著書『推理式指導算術』を発刊し、100万部を超えるベストセラーになりました。このように、牧口先生が目指した創価教育は、まず戸田先生の教育実践の中で花開きました。戸田先生は、『創価教育学体系』の出版において、編集のみならず、資金面でも全面的に責任を担いました。
その後、牧口先生と共に入獄し、戦後、生きて出獄した戸田先生は、牧口先生から受け継いだ教育哲学を根底に民衆運動を展開しました。